【自己研鑽】生物心理社会モデルの興亡ーナシア・ガミーの論文を読む
The rise and fall of the biopsychosocial model
Br J Psychiatry. 2009 Jul;195(1):3-4. S Nassir Ghaemi PMID: 19567886
毎月行われる富山の家庭医が集まる勉強会で,こんな話題があった。
「BPSモデルと患者中心の医療の方法を精神疾患の可能性もありそうな患者さんに当てはめて結果的に良い結果につながったようですが,精神疾患の程度によっては必ずしもそのアプローチが万能とは言えないのではないか。そういうときのためにBPSから視点をずらした別の視点を持つことも重要だと思います。ナシア・ガミーの『現代精神医学のゆくえ』では,すべての精神疾患を単一の理論によって説明したり,単一の方法によって治療したりしようとする教条主義に対してBPSモデルは単にさまざまに異なる視点を受容する折衷主義であると批判しています。これはどのような理論やどのような方法ももしかすると正しいかもしれないと見なし,いかなる理論もいかなる方法も決定的に誤っているとは見なさないということで,結局どうしていいかわからないという批判です。ではどうすべきかと言うと多元主義という言葉を使っています。これは最良の成果は,各人が自分が行っていることについてのエキスパートであるような複数の治療者によって達成されるという主張で,ヤスパースやオスラーなどの考えかたに関わってきます。これが正しいというわけではなく,様々なものの見方が大事だという話です。詳しくは本を読んでください。あっ,これブログのネタになるかもしれない,やっぱりこれからブログを書くので読んでください。」
というわけで話題提供したのは私なので,完全なる自作自演なのだが
ナシア・ガミーの事をブログにまとめたことがなかったので紹介したい。
ナシア・ガミー
イラン生まれ。ボストンのタフツ医療センター精神医学教室教授。医学博士。双極性障害(躁うつ病)、不安障害の臨床研究を専門とするが、哲学、公衆衛生学にも造詣が深い。2001年には哲学の修士号(タフツ大学)を取得。
METHOD IN MADNESS? Ft. Nassir Ghaemi, Psychiatry Professor at Tufts University & Bestselling Author
双極性障害の専門家としての講演はYouTubeでみることができます。
https://www.youtube.com/results?search_query=Nassir+Ghaemi&pbjreload=102
特に面白いのは2020/05/03のYouTubeです。トランプ前大統領への精神状態の言及などのコメントを見ればその雰囲気がわかると思います。
でも紹介されているので,動画をご覧になって興味が出たら読んでみてください。
#069 - A First-Rate Madness (Dr. Nassir Ghaemi)
ガミーの訳本といえば村井俊哉教授の事も紹介しないわけにはいかないだろう
村井俊哉先生は1966年大阪府生まれ。京都大学大学院医学研究科修了。医学博士。マックスプランク認知神経科学研究所、京都大学医学部附属病院助手などを経て、現在京都大学大学院医学研究科精神医学教室教授。専門は臨床精神医学、行動神経学。著書に『社会化した脳』(エクスナレッジ 2007)『人の気持ちがわかる脳』(ちくま新書 2009)、訳書にシュピッツァー『脳:回路網のなかの精神』(共訳、新曜社 2001)Hartje/Poeck『臨床神経心理学』(共訳、文光堂 2004)、ガミー『現代精神医学原論』(2009)『現代精神医学のゆくえ』(共訳、2012、以上みすず書房)などがある。
著書(訳本)には
現在精神医学のゆくえーバイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却ー2012/9/21
最近,2020年4月に新装版がでています。
現代精神医学原論 【新装版】 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2020/4/1
が発売され,こちらは翻訳が大変読みやすくなっているので是非お求めいただきたい。
本当は
バイオサイコソーシャルアプローチ―生物・心理・社会的医療とは何か? (日本語) 単行本 – 2014/7/31 渡辺 俊之 (著)
と合わせて読むと今回のブログをまとめがいがあるのであるが,それはまたの機会に。
(なぜなら,現在深夜4時の当直中なのである。そろそろ寝ようかと思ったが,これを書き始めたら朝になってしまうだろう。)
さて,脱線から戻る。
勉強会でのコメントは,現在精神医学のゆくえーバイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却ーの視点を持つことは,真にBPSモデルを理解することにもつながると感じているため紹介した次第である。
そして,本の解説に行けばよいのであろうが,ついうっかり自己学習のテンションになってしまった深夜4時。(くどいようだが当直中である)
PubMedで Nassir Ghaemiを検索して双極性障害以外の論文を探せば,BPS批判は出てくると考え,この論文に出会ったので,いくらかの解説を加えながら読んでいきたい。(出会ってしまったおかげで,眠気も吹き飛び,朝まで論文を読むことが確定した瞬間である)
なお,解説の参考にしているのはこちらの論文です。
こちらを読みながらナシアガミーの論文を読むと理解が深まると思います。
https://core.ac.uk/download/pdf/236156783.pdf
要約
生物心理社会モデルは、現代精神医学の概念的な現状である。これは精神医学の教条主義と闘う上で重要な役割を果たしてきましたが、単なる折衷主義へと発展してきました。ウィリアム・オスラーのメディカルヒューマニズムやカール・ヤスパースの方法論に基づく精神医学など、医学や精神医学に対する他の非還元主義的アプローチは再考されるべきです。
概念的な現状
現代の精神医学の主流のイデオロギーは、生物心理社会モデルです。精神医学をあまりにも生物学的であると考える多くの人々は、このモデルにもっと忠実であるべきだと主張しています。(Craddock, N. Br J Psychiatry 2008) 生物医学的モデルと比較して、(ジョージ・エンゲルのように)生物心理社会的モデルはより科学的(心理社会科学を含む)であると考える人もいれば(Engel, GL. The need for a new medical model: a challenge for biomedicine. Science 1977)、より実利主義的、あるいは人間主義的であると考える人もいます。生物学的精神医学に対する不幸には、製薬業界や保険業界、あるいは国民健康計画が心理社会的介入よりも薬理学的介入を優先するために利用している「エビデンスに基づいた」実践に対する反応も含まれています。生物心理社会的モデルは解毒剤とみなされているが、同様に原因である可能性があり、精神医学の生物化に抵抗するための説得力のある概念的根拠や経験的根拠を提供できていない。問題は、おそらく、多くの人が推測しているように、それを実施できなかったことではなく、モデル自体の失敗にあるのではないでしょうか。このモデルの創始者エンゲルの言葉を借りれば、「生物学的、心理学的、社会的な3つのレベルすべてを、すべてのヘルスケアの仕事において考慮に入れなければならない」というのが、このモデルの主張です。これらはすべて、多かれ少なかれ等しく、すべてのケースで、常に関連しているのです。
19 世紀に現代精神医学を創始したクレペリンらは,脳の器質的異常から精神疾患を理解しようという生物医学的なアプローチを採用していました。その後,20 世紀になり精神分析が台頭すると,生物医学的アプローチに代わり,無意識的な心の働きから精神疾患を理解しようという心理学的なアプローチが主流となりました。一方で,20 世紀中頃になり,統合失調症やうつ病などの主要な精神疾患に対する薬物治療が可能になると,生物医学的アプローチは再び勢いを取り戻し,今日では,精神分析とは異なる形で心理的な要因にもとづいて精神疾患を理解し,治療しようという認知行動療法などの手法も一般的となっています。
このような生物医学的アプローチから精神分析,そして心理的要因にも目を向ける背景になったのが,米国の精神医学者エンゲルが提唱した生物心理社会モデル(BPS モデル:biopsychosocial model)だと言われることがあります。このモデルを提唱した論文(Engel 1977)で, 彼は以下のように論じています。
『医学においては,疾患を身体的な異常として理解する生物学モデルが主流となっている。そして,精神医学においては,精神医学にもこのモデルを取り入れ,精神疾患を脳の異常として理解すべきだと考える人々と,精神医学にはこのモデルは適用できないと考え, 精神医学を医学から排除しようと考える人々の間に対立が生じている。しかし,すべての病気を身体的な異常として理解するのは不適切である。病気の中には,ストレスによって生じる胃潰瘍や劣悪な衛生状況によって引き起こされる伝染病など,心理的な要因や社会的な要因を原因とするものもあるからである。身体の疾患と精神の疾患どちらを理解するうえでも,生物学的な要因だけでなく,心理的な要因や社会的な要因を考慮することが不可欠なのである。』
一見すると,精神医学に多様な理論や方法論が共存しても良さそうに見えるBPSモデルですが,この論文でもその批判のポイントが出てきます。
起源
歴史は関連しています:心療内科(フロイトの学生であるフランツ・アレクサンダーによって設立されました)にルーツを持つエンゲルは、医学を心理学化しようとしていました(現在の生物心理社会的支持者は、精神医学を医学化することを避けようとしています)。内科医であり、アレクサンダーとともに精神分析の訓練を受けたエンゲルは、機能性胃腸障害(特に潰瘍性大腸炎)の専門家でした。エンゲルは精神医学ではなく、医学的な病気に焦点を当てていました。彼の古典的な論文の中で、彼は心筋梗塞や胃腸の病気の患者について述べていますが、精神疾患については述べていません。彼はこのモデルがすべての病気に適用されると信じていましたが、精神疾患との関連性を示そうとしたことはありませんでした。生物心理社会的概念は1950年代には存在していた。ロイ・グリンカー(フロイトによって分析された神経科医であり精神科医であり、後にアレクサンダーのグループのメンバーとなる)は、エンゲル(1954年対1977年)よりもずっと前に、実際に「生物心理社会的」という用語を造語しました(Grinker, RR Sr. A struggle for eclecticism. Am J Psychiatry 1964; 121: 451–7.)。グリンカーは、生物心理社会的アプローチの限界について率直に述べています。彼は精神医学のための「統一された場の理論」を否定し、特異性が必要とされる研究のために生物心理社会的なホリスムを拒否しました。一方、エンゲルは、生物心理社会的モデルは「研究のための青写真であり、教育のための枠組みであり、医療の実際の世界での行動のための設計図である」と主張しています。おそらく、ある歴史家が示唆するように、生物心理社会的モデルは、精神分析を「裏口から」保存するための方法だったのでしょう(Shorter, E. The history of the biopsychosocial approach in medicine: before and after Engel. In Biopsychosocial Medicine: An Integrated Approach to Understanding Illness (ed White, P): 1–19. Oxford University Press, 2005.) 。この解釈は、最近の生物心理社会的マニュアルによって支持されています。
このグリンカーの論文にeclectismという言葉が出てきます。これが折衷主義というものです。
折衷主義とは、相異なる哲学・思想体系のうちから真理、あるいは長所と思われるものを抽出し、折衷・調和させて新しい体系を作り出そうとする主義・立場です。これは体系間の混合を意味するシンクレティズムと区別されます。ギリシャ語の「選び出す」を意味する動詞の ἐκλέγω が語源です。
折衷主義
上記の正式な定義を超えて、生物心理社会的モデルのための別の究極の、めったに明示的な根拠があります:折衷主義。グリンカーは率直に精神分析の教条主義とは対照的に "折衷主義のための闘争 "のために主張した。しかし、グリンカーが地味で彼の目標に限定されていたところ、エンゲルは拡張性がありました。グリンカーは鍵を特定した:生物心理社会的擁護者は、折衷的自由、つまり「患者に合わせて治療を個別化する」能力を本当に求めているのである。この折衷的な自由は無政府状態の境界線上にあります:1つは、望むならば「バイオ」、または「サイコ」(多くの生物心理社会的擁護者の間では通常、精神分析的である)、または「社会的」を強調することができます。しかし、1つの方向または他のいずれかに向かう理由の合理性はありません:レストランに行くと、レシピではなく、食材のリストを取得することによって、1つは、1つの好きな方法ではなく、すべて一緒にそれを置くことができます。(McHugh, P, Slavney, P. Perspectives of Psychiatry (2nd edn). Johns Hopkins University Press, 1998.) これは究極のパラドックスの結果である:自分が選んだことを何でも自由に行うことができ、人は(意識的か無意識的かを問わず)自分自身のドグマを実行するのである。ヘーゲルの悲劇のように、折衷主義は教条主義を作り出す。その後、すべての人は文句を言い、より多くの自由を求める-そもそも現状維持につながった同じモデルのより多くを。
鈴木先生の論文ではナシアガミーの著書(Ghaemi 2007; 2010)にかかれているBPSのモデルの批判を抜粋されています。
①たとえば,BPS は,個々の精神疾患,個々の患者の治療において,生物学的要因・心理的要因・社会的要因のいずれを重視すべきかについて,具体的な指針を与えてくれない(2010,pp. 126―127)
②BPS モデルは,心理的要因や社会的要因を考慮に入れるという点で,生物医学モデルよりも人間的だと言われることがある。しかし,人道的な生物医学モデル,すなわち,患者の精神状態や患者と医師の関係などに十分に配慮した生物医学モデルと比べたとき,BPS モデルの優位性は明らかではない(2010,pp. 201―202)。
③さらに,たとえば統合失調症の治療などにおいては,BPS モデルよりも生物医学モデルの方が適切な対応を可能にする。統合失調症の原因は遺伝的要因に由来する神経伝達物質の異常であり,それは投薬によってはじめて治療可能となるものだからである(2010,pp. 206―210)。
④BPS モデルは,精神分析が偽装して現れてきただけのもの(2010,p. 214)
そして,このモデルへの最大の批判が,BPSのモデルは折衷主義(eclecticism)的だというものである(2007,Ch. 1)
折衷主義とは相異なる哲学・思想体系のうちから真理、あるいは長所と思われるものを抽出し、折衷・調和させて新しい体系を作り出そうとする主義・立場でしたが,ガミーはこれと対比しているのは教条主義(dogmatism)と主張します。
精神医学における教条主義とは,すべての精神疾患を単一の理論によって説明したり,単一の方法によって治療したりしようとする立場である。したがって,精神疾患はすべて脳の異常であり,投薬などの生物医学的な方法によって治療可能であると考える生物医学モデルも,精神疾患はすべて無意識の心の働きの産物であり,精神分析によって治療可能であると考える精神分析学派も,ガミーによれば教条主義だということになる。
これに対して,BPS モデルはさまざまな理論や方法の共存を認めるのであるが,そのあり方は好ましいものではない。彼によれば,BPS モデルは,「単にさまざまに異なる視点を受容する」(2007,p. v)だけのものであり,「すべての理論や方法についての議論を放棄する」(2007,p. 113)ものだからである。BPS モデルは,「どのような理論やどのような方法ももしかすると正しいかもしれないと見なし,いかなる理論もいかなる方法も決定的に誤っているとは見なさない」(2010,p. 39)という立場である。このような見方をとる結果として,BPS モデルでは,薬物療法,精神分析,認知療法といった多種多様な治療法が組み合わされて用いられる(2007pp.426―430)。
擁護
生物心理社会モデルの支持者は、概念的な防衛策と経験的な防衛策を提案することができる。概念的な防御の一つは、還元主義とは対照的に、全体論の利点に基づいています。基本的な考え方は、「多ければ多いほど良い」というものであり、真実は、より多くの視点を追加し、高度に複雑な現実に近づいていくことで達成され るというものです。これは常識的なことかもしれませんが、科学的な感覚ではありません。長らく典型的な心身症と考えられてきた消化性潰瘍の病気は、ヘリコバクター・ピロリが原因であることが証明されている。科学の特徴として、一見複雑に見えるものが単純であることが証明されたのである。もう一つの概念的擁護は、生物心理社会モデルをヒューリスティックに捉え、病気の3つの側面に注意を払うことを思い起こさせることである。そこで問題となるのは、どのように選択するかということである。どのようにして、ある側面と別の側面を優先させるのか?エビデンスに基づいた医療が選択のメカニズムを提供していると提案する人もいるかもしれないが、多くの場合、エビデンスは限られていたり、存在しなかったりする。古典的に進められてきた生物心理社会的モデルは、優先順位をどのようにつけるかについての指針とはならない。その結果、優先順位付けは人それぞれの好みで行われ、モデルは単なる折衷主義に陥り、洗練されたものになってしまうのである。多ければ多いほど良い」という哲学の経験的な擁護は、薬物療法や心理療法が常に、そして本質的にどちらか一方だけよりも効果的であるという折衷的な生物心理社会的直観に基づいて行われることがあります。経験的には、そうである場合もあれば、そうでない場合もあります。純粋に一つの方法や治療法を使用することで、より良い結果が得られたり、複数のアプローチを一緒に使用するよりも有効であることが多いのです。
このように,ガミーは教条主義だけでなく折衷主義も批判します。これらに代わって彼が提唱するのは,多元主義(pluralism)です。これは,折衷主義とは異なる形で異なる理論や方法の共存を図る立場です。彼によれば,多元主義者はそれぞれの理論や方法の有効性の限界を自覚している(2007,p. 20)。「特定の理論的アプローチは特定の障害に適用されたときに最大の効果を発揮する」(2007,p. 400)のです。
これをふまえて,多元主義者は複数の方法をそれぞれ純粋に用い(2007,p. 20)その結果,実際の治療の場面においては,方法ごとに別々の治療者が治療を担当することになります。
「最良の成果は,各人が自分が行っていることについてのエキスパートであるような複数の治療者によって達成される」(2007,p. 433)のです。
代替案
これらは唯一の代替案か?生物医学的還元主義(「医療モデル」)か、それとも生物心理社会的モデルか。生物心理社会的アプローチは、ストローメンに対抗したときにのみ輝く。教条主義に代わるもう一つの選択肢は、加法的折衷主義のほかに、カール・ヤスパースが提唱した方法論に基づいた精神医学です。冷たくて非人間的な生物医学モデルに代わるもう一つの選択肢は、ウィリアム・オスラーによって開発された医療ヒューマニズムモデルです(Osler, W. Aequanimitas (3rd edn). The Blakiston Company, 1932)。方法論は、理論の長所と短所を決定します(Ghaemi, SN. The Concepts of Psychiatry: A Pluralistic Approach to the Mind and Mental Illness. Johns Hopkins University Press, 2007.)。教条主義者は1つの方法で十分であるとし、生物心理社会的折衷主義者は方法を常に組み合わせるべきであるとし、ヤスパースは(状態に応じて)1つの方法、時には別の方法が最善であるとしています。多くの臨床家は、用語複数論的と折衷的なので、おそらくヤスパーズの非教条的、非折衷的なアプローチは、メソッドベースの精神医学(証拠に基づいた医学への類推で)と呼ばれるべきである。オスラー(ヒポクラテスを近代化したもの)は、医師の役割は、病気を持っている人間である人間に注意を払いながら、身体の中の病気を治療することであると主張しました(生物医学的還元主義)。Oslerは医学モデルを非還元主義的に適用した。病気が存在するところでは、身体を治療し、病気が改善可能ではあるが治癒可能ではないところでは、リスクに注意を払って治療し、病気が存在しないところでは(一部の患者には症状や徴候があるが、病気はない、例えば、肺炎ではなく咳など)、人としての人間に注意を払う。Oslerは、医学は科学に基づいて芸術であることを教えてくれました。Engelは明示的にそれが特異な対人スキルに心理社会的要因を軽視したと主張して、医学の芸術の概念を拒否した。彼はこのように古典的なソース、文学や詩から人間についての学習を提唱した -エンゲルの生物心理社会的なモデルは、この意味では、反人文主義的であると拒否した:オスラーは、生物学的、芸術としての医学の科学を見た。医学は、科学と人文科学の間の有名な二分法を乗り越える。オスラーは、心理学的な科学主義を介して医療ヒューマニズム、エンゲルとの橋渡しをしようとしました。
ガミーは,多元主義の源泉として,オスラーなど何人かの精神医学者の名前を挙げています。そのなかでもとくに彼が重視するのは,ドイツの精神医学者・哲学者カール・ヤスパースでした(2010,Ch. 17)。ヤスパースは,ディルタイらにならい,自然科学で用いられる因果的な説明(erklären)と人文科学で用いられる合理的な理解(verstehen)を対比しました。
ヤスパースによれば,すべての現象を因果的な説明によって説明しようとするのは不適切である。そしてこのことは,精神医学にも当てはまります。説明という方法がふさわしい精神疾患と理解という方法がふさわしい精神疾患の両方が存在するのです。このように,ガミーによれば,ヤスパースは多元主義の先駆者なのです。
将来
おそらく、エンゲルやグリンカーの研究よりも優れた、新しく改良された生物心理社会的アプローチが、社会疫学や発達生物学的精神病理学のように登場することになるでしょう。このような努力は称賛に値するものであるが、それが医学や精神医学の新しいモデルをどのように提供するのか、あるいは医学的ヒューマニズムやヤスパース的方法に基づいた精神医学をどのように改善するのかは不明である。生物心理社会的モデルは、当時、生物医学的還元主義への反動として価値のあるものでしたが、その歴史的な役割を果たしてきました。精神疾患は複雑であり、生物学だけでは十分ではないが、生物心理社会的モデルはそれに従うものではない。他にも、より折衷的でなく、より一般的でなく、より漠然とした代替案が存在している。精神医学は、時代遅れのレッテルを再び貼るのではなく、それらに目を向けるのがよいだろう。
と締めくくられています。
結局のところ,ガミーの主張は,現在の精神医学において支配的な見方である BPS モデルは折衷主義である。われわれはこれを放棄して,多元主義を採用すべきである。ということでした。
ここからは,鈴木先生の論文ではこのような論考が始まります。
・BPS モデルの何が不適切なのか
・折衷主義の何が不適切なのか
・折衷主義と多元主義はどのように異なるのか
・BPS モデルと折衷主義はどのような関係にあるのか
そもそもエンゲルは全てをBPSモデルで説明できるものだとはしておらず,その前提条件が噛み合っていないのではないかと指摘します。それは『精神疾患には生物学的要因・心理的要因・社会的要因のすべてが関係しうる。』という立場も『精神疾患は複数のレベルで記述可能である。』という立場も受け入れている穏健な BPS モデルだったのではないかという主張です。そして折衷主義と多元主義の違いをガミー自体が明らかにしていないというのです。
例えば,統合失調症には投薬治療が有効だが,心理療法は有効ではない。これに対して,境界性パーソナリティ障害には,投薬治療よりも心理療法が有効かもしれない。このような場合には,精神疾患の種類に応じて,精神医学が採用する記述のレベルや治療法を切り替える必要があるかもしれない。したがって,多元主義者の主張が,どのような場合にもすべての記述のレベルを同等に重視するのは不適切だということだとすれば,その主張はもっともなものであるように思われるが,極端な折衷主義も極端な多元主義も説得的ではない。
例えば,うつ病の例において,この患者を理解するには,失業という社会的要因に着目することも,それがきっかけで生じた自尊心の低下などの心理的な要因に着目することも,それがきっかけで生じた脳内におけるセロトニン系の活動低下のような生物学的な要因に着目することもできます。そのような精神疾患を理解するうえで心理的要因や社会的要因が重要であることや,精神疾患は複数のレベルで記述できることを認める点では,BPS モデルの主張は説得的ですが,これに対して,精神疾患を理解するためには自然科学の標準的な枠組を放棄する必要があるというより過激な主張は,説得的でなく,多種多様な精神疾患を理解するうえで,極端な教条主義はあまりにも単純な見方であります。
このように,精神医学の考えかたも揺れ動くものであり,ナシア・ガミーのBPSモデル批判はエンゲルのBPSモデルとは前提条件の捉え方が違っているのかもしれません。我々はBPSモデルを折衷主義的に使わずに,その限界を理解した上で,多元主義の視点に対しても本当に正しいのかという疑問の目を持つべきだ。
という結論にさせていただきたい
(書き始めてすでに3時間。朝になってしまった。おかげさまで完全に徹夜になってしまいましたが,まだ全部書ききっていないので,日を改めて渡辺俊之先生の論考を紹介させていただきます。)