南砺の病院家庭医が勉強記録を始めました。An archive of medical articles summarized by a family physician from Nanto Municipal Hospital.

An archive of medical articles summarized by a family physician from Nanto Municipal Hospital.富山県にある総合病院で働く病院家庭医です。勉強の記録を少しずつ書いていきます。

【看仏連携】医療者と僧侶が協働した全世代地域共生社会 〜地域包括ケアにおける医療と宗教の連携の可能性〜

【看仏連携】医療者と僧侶が協働した全世代地域共生社会
〜地域包括ケアにおける医療と宗教の連携の可能性〜
 
(注意)私は仏教はおろか宗教全般に詳しくありません。むしろまったく宗教に興味がないぐらいです。患者に役立つかもしれないから取り入れているだけです。あくまで勉強中の身であり,宗教の押し付けにはならないように気をつけておりますので,そんな気持ちでご覧ください。
 
以前,富山の家庭医療の勉強会でスピリチュアルペインが話題になりました。
 
その日のうちに,フィードバックのために村田理論と呼ばれる終末期がん患者のスピリチュアルペインはどのような苦痛なのかをブログにまとめました。
 
すると,Vital talkで有名なハワイ大学の植村先生からJAMAの必読文献であるFICAクエスチョンを紹介されるという,地元の家庭医療勉強会と勉強ブログとSNSの見事な連携で学びを深めておりました。
 
そんな神回はこちら 

 
というわけで,スピリチュアルペインの理解のためには宗教の視点は支えになるというのはわかりましたが,実際の宗教家の方のお話を聞くことは今までありませんでした。
 
もちろん,
 
南砺市で地域包括ケアに携わる南眞司医師のお声がけで医療・介護・福祉の専門家と宗教家の方々との合同勉強会があったので参加しました。
 
 

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この勉強会は南砺市で良い看取りができるように看仏連携をしていくにあたり,まずは共通の認識を作っていき,各職種が抱えている価値観を共有することが目的です。
 
今回の講師は福井仁愛大学学長の田代俊孝(しゅんこう)先生です。
真宗学が専門で親鸞の思想を研究しているが、1980年代後半から、デス・エデュケーション(いのちの教育)やビハーラ(仏教ホスピス)、死生学を提唱し、その分野の理論的リーダーであり、第一人者。国内はもとより、アメリカやブラジルの大学で仏教の死生観や東洋の生命観について講義している。新聞・テレビ・ラジオなどマスコミにもよく登場している。また、名古屋大学医学部の生命倫理審査委員、非常勤講師、バイオやゲノムの専門審査委員などを永年務めていた。自身が中心となり設立し、代表を務めるビハーラ医療団が2015年仏教伝道文化賞沼田奨励賞を受賞。
 
ビハーラについては名前は知っていましたが,どのようなものかはさっぱり分からず,関連図書や論文を一通り読み漁ってから臨みました。
 

他にも著書は多数ありますが,ビハーラに特化したものでなければ非常に難しい内容でした。浄土系各宗の組織的活動による成果はある程度得られているようですが,禅宗でもそのような活動はあり,論文も勉強になります。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_282/_pdf/-char/en

簡単に言うと,キリスト教がメインであるホスピスに対して仏教系のビハーラという理解です。
 

ビハーラ (医療) - Wikipedia

ビハーラ(vihāra)は、サンスクリット語で精舎、僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味し、現代では末期患者に対する仏教ホスピス、または苦痛緩和と癒しの支援活動を差す。

欧米で発祥した「ホスピス」がキリスト教系の響きを持っていることに対し、「ビハーラ」は仏教的独自性を出したことに特徴がある。
ターミナルケアにおける人間の精神面の重要性が見直され、終末看護と終末看死において仏教者(ビハーラ僧)と医師、看護職ないしソーシャルワーカーなどによるチームワークに注目したことに仏教社会福祉的特徴がある。
さらに近年においては、谷山洋三が「ビハーラとは何か?ー応用仏教学の視点からー」(『パーリ学仏教文化学』19号、2005)で、狭義・広義・最広義の3つのカテゴリーにまとめてビハーラを定義している。

狭義とは、「仏教を基盤とした終末期医療とその施設」であり

広義とは、老病死を対象とした、医療及び社会福祉領域での、仏教者による活動及びその施設」を指し

最広義とは、「災害援助、青少年育成、文化事業などいのちを支える、またはいのちについての思索の機会を提供する仏教者を主体とした社会活動」である。しかし、定義はさまざまになされており、定まっていない。
共通して言えることは、臨床の場において、生老病死の苦を超えるために、本人のみならず、家族を含めて仏教に学ぶ活動、もしくは、そのことを行う施設を意味している。

  • 1985年に仏教の主体性・独自性を表すため、仏教を背景とするターミナルケアの施設に「ビハーラ」と命名することを、当時佛教大学社会事業研究所に所属していた田宮仁が提唱。また、このことの理念的研究のさきがけは田代俊孝である。彼の著である『仏教とビハーラ運動-死生学入門-』(1999年、法蔵館)はその後のビハーラ運動をリードした。
  • 1993年に新潟県長岡西病院に最初のビハーラ病棟ができ、その後各地に広まった。
  • 1998年には、仏教を学ぶ医療関係者で全国規模のビハーラ医療団が結成され、ビハーラ運動の推進とその普及がはかられている。
  • 2008年には城陽市に浄土真宗本願寺派により「あそかビハーラクリニック」が開業した。
 
ちなみに,あそかビハーラ病院のHPには緩和ケアの関連のリンクや,ビハーラに関する一般の方向けの説明が充実していますので興味があれば御覧ください。
 
本日の勉強会で初めて知ったことですが,宗教家の方々は多くの人を前に説法することはありますが,1対1でお悩みを聞いて答えた経験がない方が多いというのです。
 
確かに病気になる前に宗教家の方と1対1で相談しようと思う方は少ないかもしれないのですが,病気になったらなったで,病気のことをよく知らないのでどのように関わっていけばよいかわからないというのは,まさに宝の持ち腐れです。
 
構図を考えると
医療者は一人ひとりに対応しているが,宗教家はそういう場がないのが問題
宗教家は宗教を介して悩める人々の価値観を変えて幸せに導きたいが,適切なタイミングで介入できないのです。
 
そこで,死に対する受け入れが難しい場合に,どのようにアプローチすればよいのか
医療と宗教の事例検討会をすべきではないのか
顔見知りになった医療者と宗教家が多職種協働することは重要なことだと思います。
この勉強会は地域包括ケアに宗教家が参加する良いきっかけになるのではないかと思います。
 
田代先生の講義内容を紹介します。
 
1宗教と医療
全人的痛み(Total Pain):以下の4つは共通言語でした
  • 身体的苦痛
  • 精神的苦痛(不安・いらだち・孤独・恐れ・怒り・うつ状態など)
  • 社会的苦痛(仕事・経済上・家庭内・人間可関係の問題)
  • スピリチュアルペイン(霊的苦痛)(人生・生と死・神・罪・苦しみ・価値観などに関する問題)
Spitualityとは人間の生きる意味や目的を探求する能力。
たとえば,あいだみつおの言葉が力になったりなど。
人生の各段階における危機を乗り越えるエネルギー・能力
苦しい事実を引き受けていける力→普遍的宗教
生死の苦を超えるには医療・福祉・カウンセリングに加え宗教(何らかの哲学があるもの)が重要
 
仏教が何のためにあるのか?
仏教は悩む人のためにある。

仏教には四門出遊(しもんしゅつゆう)という言葉があります

シャカ族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタは、お城で何不自由なく、贅沢で快適な暮らしを過ごしていました。

 

ある時、縁あってお城の東西南北、四つの門から城外へ出る機会に恵まれます。

 

まず、東の門から外へ出たとき、シッダールタは、よぼよぼの老人を目撃します。いままで、老人を見たことがなかったシッダールタは、たいへん驚きます。

 

「どんな人間も、歳を取れば、いずれあのように老いてしまうのか!」

 

次に、南の門から外へ出たとき、シッダールタは、やせ細った病人を目撃します。病人を見たことのなかったシッダールタは、老人を見たときと同じように驚きました。

 

「どんなに健康な人間でも、あのように病気になり、動けなくなる可能性を持っているのか!」

 

次に、西の門から外へ出たとき、シッダールタは、葬儀の列に出会います。横たわる死人を見てシッダールタはまたまた衝撃を受けます。

 

「どんな人間であれ、いずれはあのように動かなくなって死んでしまうのか…!」

 

シッダールタは人間の現実と言うものに触れ、恐怖と不安に苦悩します。

 

「人間は、今は若く健康であっても、いずれは老いて病気になり死んでしまうのだ…なんと残酷で怖ろしいことなのだろう…」

 

そして最後に、北の門から外へ出たとき、シッダールタは、修行僧に出会います。修行僧を見たシッダールタはその清浄で泰然、苦しみも不安も感じさせないその姿に感銘を受けました。

 

この苦しみと不安のあふれる世界で、なんと堂々とした姿をしているのだろう。この方のお顔からは、何の不安も苦しみも感じさせない!素晴らしい!

 

こうしてシッダールタは出家を決意したというお話です。

 

苦しみや不安から開放されるには宗教の考えかたが参考になります。
例えば医療者が抱きがちな,延命(生存率)の向上や,生がプラスで・死がマイナスという考えかたを大事にして,それでもいつか死ぬことも理解している医療だけでいいのか。死んでいく人をより良く送るのも医療の役目ではないかという視点です。必ず人は死ぬのに,生はプラス,死はマイナス,この価値観で医療現場でやりきれない問題がありました。
 
宗教は価値観の転換をすることで救いを求めます。
 
がんはがんでいいのではないか。
病気になったときに,なんで私がと思うとしましょう。
でも人間なんだから病気になった当然。
老いは苦しみと思うか,老いて当たり前と思うか
死ぬのはアタリマエと思うことが大事
癌は癌のままで,このままで良かったと思おう。これが普遍宗教
 
西遊記に,孫悟空がお釈迦様に挑むエピソードがあります。
孫悟空は筋斗雲で世界のはてまで行き,柱に名前を書きますが
実は柱だと思っていたものはお釈迦様の指で,手のひらの上で遊ばれていただけだったというお話です。
 
人はだれも自分一人で生まれてきたものではない。縁によって生まれる。
死も思い通りになる者ではない。だから思い通りにならないものだと思えば救われる。
思いを超えた縁起の法の中に生かされている
価値観を作って,独り相撲しているのはおかしい
病気もいただきもの
足腰が立たないのもいただきもの
そういう文化が根底にあるのでしょう

法話「縁起 ~生かされているいのち~」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

「縁」とはお釈迦様がお説きになられた「縁起の法」からきています。「縁起」とは「縁(よ)りて起こる」と読むことができ、この世で起こる全ての事柄には、それが生じる原因があり、そこに無数の縁(条件)が重なり、最終的に結果が生じています。
 例えば花の種を蒔けば芽は出ますが、そこから大輪の花を咲かせるためには水、肥料、太陽光など様々な縁が良い方向に重ならなければなりません。
 私たちのいのちも単独で存在しているのではなく、縁が重なることによって奇跡的に生まれ、お互いに関係し合いながら支え合い「生かされている」ということがいえます。
 また人生の中で起こる全ての出来事は自らの言動や行ないに対して無数の縁が重なった結果、生み出されることであり、覚悟を決めてその全てを受け入れ、そこで精一杯生きていかなければなりません。

 

本来,宗教と医療は一体

キリスト教は西洋医療でホスピスに根付きチャプレン(病院付きの宗教師)が活動しています。
一方で仏教では聖徳太子が建立されたと伝えられる四天王寺には「四箇院」といって「敬田院」「施薬院」「療病院」「悲田院」が設立されており、仏教と医療や介護といった社会福祉は密接な関わりをもっていました。
 
 
デス・エデュケーションとビハーラ運動
日本における緩和ケアと宗教の歴史を振り返ります。
日本のホスピスの設立(1983年聖霊三方ヶ原病院)
アルフォンス・デーケン 生と死を考える会 1985年頃
田宮仁 ビハーラの提唱 1985年 ビハーラとは?
田代俊孝 死そして生を考える研究会(ビハーラ研究会)1987
長岡西病院ビハーラ病棟の設立 1993
西本願寺ビハーラ運動の開始 1988
ビハーラ医療団結成 1988
西本願寺あそかビハーラクリニック(後にあそか病院)設立 2008
死の準備教育・いのちの教育・死生学・ビハーラ運動・スピリチュアルケア・ビハーラ学会・臨床宗教師・グリーフケアへと繋がっていきます。
 
死のことを問うと生が見えていくる
遠い方の死では意識できなくても,身内の死が生を意識するということはあると思います。
蓮如上人の白骨の御文書をご存知でしょうか?

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浄土真宗の中興の祖といわれています第8世蓮如上人が、真宗の教えを一般の信者に教えるために、平易に述べたもので80通が納められています。そのなかでも、第16通は、「白骨の御文章(御文)」として、人間のはかなさを諭したもので、葬儀や法事などで用いられています。
朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。
死を問うことが生を意識する。生を充足することになる。
死について話すことで今をどう生きるかを考え直すきっかけになるのです。
 
患者さんの宗教観や文化を知る
私の話になりますが,訪問診療先で仏壇に手を合わせることがあります。
富山の家は,家に大きな仏壇があることが多く,特に始めていく家庭で仏間に手を合わせることで,大切な縁で続いているその家にお邪魔することへの敬意を現すことになり,患者さんやそのご家族と関係性を築くきっかけになることもあります。
宗教観が異なっても,患者さんの大事にしているものは何かを知ることは重要です。
 
 
 
通常医療とホスピス・ビハーラのまとめ
(ただしこれは宗教家の視点で,医療者から見るとACPや緩和ケアなども実践されているため,そこまで極端ではないような気もするので,お互いに理解し合うことが大事だと感じます。)
通常医療
ホスピス・ビハーラ
何かをする(治療)
そばにいる・寄り添う(看護)
技術的対処 
人間的対応
延命の重視
生命や生活の質の改善(QOL)
機能的アプローチと効率優先の施設
人格的アプローチと環境への温かい配
患者中心
患者だけでなく家族・遺族の悲哀のケア
医師を中心とした体制
平等な協力体制
身体の問題の解決
価値の転換による死の受容 自然のままに
 
 
人生の満足は,その長さなのか質なのか
人生長きが故に尊からず 人生深きが故に尊しという言葉があります。
22歳で亡くなられ、著書『若きいのちの日記』を書き残された大島みち子さんは、「人生長きがゆえに尊からず、人生深きがゆえに尊し」と言われました。まさに、いのちの願いを見いだされ、いのち輝かせて人生を全うされました。
「こんなはずではなかった」と考えると空過(むなしい)であり「これでよかった」と考えると満足と思えます。考えかたで人生の豊かさが変わるということです。価値観を変えることの大切さを教えられます。
 
 
こんなはずではなかったと思うと,人生むなしいだけ 価値観の転換が大事
ブータンは世界で一番幸福な国と言われているが,GDPは日本の昭和30年代ぐらい
です。ではなぜ国民は満足なのでしょうか。
ブータンは、これまでの概念に対して、その発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っています。欲望のものさしを伸ばすのではなく,そのものさしを離れる事が大事です。
 
 
ものさしがなかったら成長しないのではないか
こういう指摘もあるかもしれません。
たとえば通知表は人間をわけるものではなく,能力を引き出すための手段です。
でもそれで人を測るものではない。絶対視してはいけない。
命のものさしもそう。日本は長寿を目指して,結局幸せだと思う人は増えなかった。
幸せとはなんだろうか。
長寿になっても「こんなはずではなかった」と思っていれば幸せではない。
じゃぁ短命だったらダメなのか。中身が大事。
長くてもよし,短くても良し,いただいたものに満足することが大事
 
仏教には自然法爾(じねんほうに)という言葉があります
この世の物事は自然の法則に従って自然に流れ動いていくという意味です。自分の力でどうこうしようとしても、どうにもならないことがあるという意味です。浄土真宗(一向宗)におきましては、自然に身をまかせることを他力にすがると言い、また仏さんにおまかせするとも言います。

法名のことば(このページは経典の解説が充実しています。興味があれば是非。)

 
ここまでで,ビハーラの目指すところが分かっていただけたと思います。
平たく言うと,価値観の転換なのです。
ですので仏教を”利用して”終末期のケアをするという言葉は誤りです。
利用するというと何とかうまく欲を満たそうとすることではない。
そもそも得ようとするほど離れていくもので勝てるわけではない。
仏教は利用するものではなく,仏教は学ぶもの,聞いて学ぶもので,その結果,価値観が変わることになるのです。
 
宗教によって死を超えていった人たちの文章を読んでいただけると理解が深まります
ケース1鈴木章子さん
肺一葉 捨てて はじめて 空気の存在を 実感しました
無形の存在を たしかに 受容できました (「無形の存在」 鈴木章子)
鈴木章子(あやこ)さんは、北海道の東端、知床半島の付け根に近い斜里町の真宗大谷派西念寺の坊守で、斜里大谷幼稚園の園長をつとめておられました。また、四人の子どものお母さんでもありました。四十二歳のとき乳癌発症の告知を受け、転移した癌のため肺の切除など、四十六歳で亡くなるまでの四年間、死と向かい合う苦しい闘病生活の中、念仏の教えを聴聞し、「いのち」とは?人間としての生き方とは?を問い続けられました。健康なときは気にも留めなかった空気のような形無きものの私への働きを実感し、多くの有形、無形のもの、大いなる「いのち」のおかげによって生かされている自分であることに目覚められました。

鈴木さんは『癌告知のあとで』(探求社)の中に、次のような歌を遺しておられます。
「割れやすき器のごとき命なり 今ひとときを輝いていたし」
自分ではなんともできない、大いなる「いのち」によって生かされている私、生かされている限り、与えられた「いのち」を精一杯生きなければと、「限りある命」に真正面に向きあって生きる鈴木さんのすがたに、人間としての生き方を学ばずにはおれないのではないでしょうか。
 
 
ケース2平野恵子さん
平野さんは、岐阜県高山市にある浄土真宗の寺院の坊守(住職の奥様)で3人の子供のお母さんでしたが、41歳という若さで腎臓ガンのため亡くなりました。『子どもたちよ、ありがとう』という本は、39歳で病を発症してから亡くなるまで、2年間の闘病生活の中で書かれた子どもたちへの手紙(遺言)です。
平野さんは、病を患うまでは、いたずらっ子の息子さん、寝たきりの病気を患う重症心身障害児のお嬢さんの子育てに、なぜ我が子だけが、と自分の思い通りにならない憤りや失望を感じておられたそうです。しかし、残された時間がわずかだと悟った時、子供達への途方もない愛情と「ごめんね」、「ありがとう」という胸に溢れる感謝の気持ちに気づき、自分が今できることは何かを必死に考えたのです。以下、平野さんの言葉

 

「実は、お母さんはとてもわがままな人間で、自分の思い通りにならないと腹が立つのです。そして、なんとかしようと頑張ってみるのですが、それでも、やっぱりどうにもならないと、今度はがっかりして、泣きたくなるのです。ずうっと昔からそうでした。特に、結婚して、あなた達が生まれてからは、毎日毎日が、失望と苛立ちの積み重ねでした。―」

 

「―お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげられること、それは、死の瞬間まで「お母さん」でいることです。元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に、動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への、最後の贈り物になるはずです。―」

 

「―人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。素行ちゃん、素浄ちゃん、どうぞ、そのことを忘れないでください。たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。―」

 

「―お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう。あなた達のお陰で、母親になることができました。親であることの喜び、親の御恩の深さも知ることができました。そして、何よりも、人として育てられる尊さを知りました。あなた達のお陰で、とても、にぎやかで楽しい人生でした。―」

 
平野さんは言葉を重ねます。
我々は多くの他者に生かされている。何故今までこんな単純な真理に目を閉じていたのだろうか。気づくのが遅すぎたと思うと同時に,気づかぬまま死ぬよりよかった。
やっとの思いで,終バスに乗車できたのである。このささやかな一生の旅路をここまで歩いてくることができたのは,父の愛,恩師の助け,友人の支え数限りない多くの人に助けられてきたからである。
 
私の感想
これらの患者さんの言葉は,今まさに病に苦しむ方々の救いになるような気がします。
よく医者に「私はもうだめなのでしょうか?」「治りますか?」と聞かれたときに,何故そう思うのですか?と聞くことがあります。もちろん医者としてスピリチュアルペインを言語化して共有するためなのですが,私が生の価値観を変えましょうということは,職業的役割としては何となく違う気がします。
 
医療のプロフェッショナルとしては,とことん生にこだわるわけではないが,医療の限界を正しく理解した上で,患者の苦しみを理解し,対話することが大事なのかなと思います。
 
多職種のディスカッションで印象に残った言葉
宗教師:生きているうちに臨終説法をしているが,やはり病気を知らない負い目もある。看護師,ケアマネのような近い立場ですることは意味がある。 急に説法をされても受け入れられないだろう。生老病死は避けらないということを徐々に受け入れていくきっかけを与えていければ良い。世の中のあらゆるご縁も,生老病死のご縁である。
例えば,還骨法要(かんこつほうよう)という,お骨を自宅に戻してそこでお骨を供養する法要があるが,そこで生を考えるきっかけになるかもしれない。
医師:地域の安全を守っても,住民は幸せになっていない。要介護5の方の17.5%は不幸と感じているという現実がある。幸せの価値観を変えることが大事。
 
看護師:ACP(人生会議)というものは医療者側もすでに取り組んでいる。どう生きていきたいかを話す機会を増やしていきたい。
 
宗教師:我々がすべきことに答えはない。まずはご縁づくりだと思います。話しかけることでその人に興味を持ち,相手とのつながりを持っているうちに,広がっていくのではないか
 
ケアマネ:一つ一つケースは異なる。答えはないけど,模索しながら行くしかない。サービス担当者会議というものがあり,ケアマネが主導になっている。ほんの小さいことだが,麻痺があって旅行は難しいと思っていたのに,本人が旅行したいといったことをきっかけにリハビリに持久力をつけましょうということもあった。死に近づいているときでも,叶いそうな願いを叶えることも医療ではないか。訪問看護・訪問リハビリなどとも協働して願いを叶えていきたい。
 
2時間という短い間でしたが,仏教の難しい説法ではなく,不安に苛まれている患者さんの価値観を変えるような文化を醸成することが何よりも大事だということがわかりました。
 
ACPを家族で話し合うというのが大事だと思われるかもしれませんが,なかなか身内だけではうまく行かないこともあるでしょう。そこにおそらく他人が入ることで,身内だけでは話せないことを聞いてあげる事も大事な役割だと思いますし,そのような活動を地道に続けていけば,地域包括ケアに宗教家が浸透していく南砺市の新しい姿が見えてくる気がします。
 
気がつけば10000文字でしたが,個人的には良き学びになりました。
宗教や哲学をもっと深めていければと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。